「大志を抱け」のクラーク博士は、南北戦争では北軍の幹部まで務めた人。戦後は農学者として、大学へ復帰する。
クラークの教え子であり、のちに同志社を創建する新島襄の紹介により、建学当初の北海道大学(札幌農学校)に招かれ、教員として働いたのはわずか8か月。
このキンパツ先生、よほど熱い老人だったらしい。帰国の際、学生全員がクラークのもとに集まり涙を流した。
「先生、我々に何かひとこと」と請われた。そして、「Boys be ambitious」が惜別の言葉として贈られた。
このワンフレーズがいまだ語り継がれることに、この人の魂の重さがわかる。
クラークのキリスト教に基づいた精神性に強烈な感銘を受け、その後の稲造の人生は決定づけられた。
以来、大志を抱いた稲造は「世界の中の日本」の地位向上に生涯をささげる。
その事績や著作物に燦然たる高尚な人格に触れるにつけ、零細企業ごときに新渡戸先生の尊名を使っていいものかと、恐れ多くもなる。
博士は「中年も大志を抱け」というだろうし、その弟子の新渡戸先生も新島先生も、「シンガポールだから」と苦笑いして許してくれそうな気もすると、開き直ってみる。
実は、筆者は同志社卒。
校祖がきっかけで来日したクラーク博士とその教え子である新渡戸稲造がいなかったら、つまり稲造米穀店も存在していなかった。
いろんな糸が組み合わさって今を織っている。
とにかく、「稲造」の名に恥じない会社にしたいと思う。