貧しい生い立ち、不自由な左手、当時としては珍しい渡米、黄熱病の研究に身を捧げてノーベル賞候補、夏目漱石を押しのけてついに1000円札の肖像…といえば、野口英世が小学校の図書館に必ずある、伝記上の大偉人であると誰しもが思う。
しかし、英世をよく知る人は、あいつほど金と女にだらしないやつはいない、と確信さえ持って語るのである。
子供向けの伝記は、英世のそんな人間味あふれる姿は決して伝えない。お札になっているくらいだから、財務省もそんなふしだらな人間は選ばないだろう、というのが世間の常識。
ただ、その偉大な足跡と51年の太くて短い、嘘みたいな本当の生涯が、英世を偉人たらしめているのだとはよく思う。
1歳のとき、英世は囲炉裏で左手に大火傷をおった。指がすべてくっついてしまうという高度障害で、そのハンデキャップと異様な姿により、英世はかなりいじめらたそうだ。障害を「手ん棒」などとはっきりとした言葉でバカにされるのだから、本当に辛かっただろう。
ただし、英世はIQ200の神童であった。1を聞けば100を知る、そのあまりの頭脳明晰ぶりに、教師も英世への進学を勧めたほど。
目がいつでもキラキラと輝き、世の中の事象の何にでも興味を持ち、たとえば、「あ」というひらがなを学べば、その成り立ち、歴史、背景…といった派生的な知識まですべて自主的に学び、それを高速回転でアウトプットまでできていたに違いない。鉛筆を持てばその生産方法と流通について調べ、地球はなぜ丸いのか?なぜ下にいる人は落ちていかないのか?などといった疑問を、自主的に学べる少年だったはずだ。
一度学んだことは忘れず、教科書もすべて暗誦…ホリエモンも小学生時代の神童ぶりを認められ、久留米大学付属中学校への進学を勧められたのと似ているのだろうか。
この後、英世は「私は医者になるから」「アメリカへいって最近の研究をするから」などと、世界最先端の研究に触れるとの弁舌を弄して多額の投資を募り、それを数日間の放蕩ですべて使うという離れ業をやってのける。その当代一流の詐欺師的片鱗は幼年時代からすでに頭角を示していたようだ。
小学校時代、英世は自分の左手の不遇を嘆く内容の作文を書いた。それが教師や周囲の同情を買い、左手手術のための募金運動にまで発展したというのである。手術したのはアメリカ帰りの医師であり、そのときの感動により、英世は医学の道を志したというのである。
英世のことだから、それはそれで真実としても、大いに感動を吹聴し、同情を買い、左手を説得力のあるネタとして使っていたに違いない。
こののち、その手術を担当した医師から、医者になるための費用と投資してもらったまではよかったのであるが、それをすべて遊興で使い切ったというのだから恐れ入る。まだ10代の頃だ。のち、英世は投資をさせては数日ですべて遊興費として使い切るという離れ業を、何度もやってのけることになる。
「こいつは病気だ」とわかっていながら、英世には投資家に金を出させるだけの詐偽師的な弁舌技術と、他者にはない突出した才能、そして何より、ある種のカリスマ的な魅力が備わっていた証拠なのだろう。しかし、借りた金にも関わらず、あればあるだけすべて遊興費で使ってしまったというところを見ると、やはり異常な才能を示す人間というのは、どこか常識はずれなところがあるものである。
英世にとって、金は女遊びに費やすものであり、その金は、英世の才能に感動して騙された他人が払うものであったようだ。
英世は語学に大変堪能だったらしく、医学生の頃は論文の翻訳から通訳まで務めていたそうである。この人のことだから、辞書一冊丸暗記していたに違いない。同時代を生きた新渡戸稲造もまた優れた語学力を持っていたが、こちらは9歳のときから専門学校で英語を学び続けた結果。英世は福島の猪苗代から医学生になるために上京してからだから、その頭脳と集中力にかけては、やはりギフテッドというほかはない。
将来を嘱望された頭脳超明晰な若手医師は、渡米を志すようになる。「より進んだ医学を!」という理由のほかに、あんがい東京のどこかでチラッと見たグラマラスな欧州系美人に計り知れない衝撃を受け、そっちの方が強い動機となっていたのかもしれない。しかし、医師として得た給料のほとんどすべてを遊郭で使いきり、先立つものがまったくなかったという、笑うに笑えない英世。
そこで思いついたのが結婚詐欺であった。当時の結婚は親同士が勝手に決めるものであったのだから、英世からそういう発想が出てくること自体、奇跡的でさえあった。
目をつけたのは、いい家柄の娘さんでも、医学生を志していたというある女性。まずは目標を定め、温泉で二人っきりになった父を騙す。そして、あの手この手で婚約まで話を進め、彼女の家からの持参金300円(当時の小学校教員の初任給が8円だから、今の800万円くらいか)を獲得した。結婚する気はまったくないため、その金を持って逃げるように渡米してしまった24歳の野口英世であった。
現代の24歳にこんなことを思いつけるはずもなく、天才にありがちな超早熟だったことをうかがわせるエピソードである。芥川龍之介が「蜜柑」を著し、娘の投げた蜜柑の橙に夜のように沈んでいた心に太陽を見たのが24歳のとき。当時の天才級の人生は、本当に現代比の半分の早さで進んでいたのである。
もっと面白いのが、この騙し取った結婚持参金の300円を、数年後に自分ではなく他人に返金させていることである。返した人間も凄い人で、英世によほど可能性を感じていたのだろうか、英世はのちにノーベル医学賞候補にまで選出されているだから。
ノーベル賞の利根川進氏、投資家から得た研究費を、すべて女遊びに使いきる!ノーベル賞候補の村上春樹氏、過去に結婚詐欺で国外逃亡!
なんて超豪快なゴシップはありえないわけで、当時のノーベル賞は、候補者の人間性は、おそらくまったく評価の対象外だったに違いない…というか、人間性の問題で、受賞できなかったのかも。
豪遊癖の強い英世がついに結婚したのは、35歳のとき。場所はアメリカ、相手はアイルランド系アメリカ人だった。
妻は英世が死ぬそのときまで、助手と不倫するわで見境も節操もない、頭のネジのぶっ飛んだノーベル賞候補を献身的に支えたそうだ。女好きの男がいつの時代も筆まめであるように、英世も赴任先のアフリカから、頻繁に手紙や電報を送っていた。「あなたからの手紙が本当に嬉しかった」といったロマンチックでプラトニックな内容で、涙なしには見られない、美しく描かれた映画の世界である。
この奥さんやその父親から、遊ぶ金欲しさに金を騙し取ったというエピソードもなく、本当に愛のある結婚だったようである。奥さんは、英世がアフリカで非業の死を遂げた後も、一生英世のことを想い続けていたそうだ。現在、この夫婦はともにニューヨークの墓地に隣り合って眠っている。
英世の死は昭和3年、奥さんのメリーは昭和22年に亡くなっている。英世の死後19年、途中両国に戦争があっても、彼女は英世の隣に埋葬されることを、ずっと望んでいたに違いない。
同時代を生きた日本国際化の父・新渡戸稲造の奥さんもアメリカ人だった。
今よりずっと東洋人への蔑視が強かったであろう当時、この二人はよほど優れた語学力とユーモアセンスと、そして強靭な精神をもち、そして自分の仕事とその実績に対して自信に満ち溢れ、他者に文句を言わせないオーラさえ漂っていたのかもしれない。西洋人も舌を巻くここぞというときの集中力、そして国境を越えて尊敬される人間性を持っていた。
もっとも、新渡戸稲造は本当の聖人君子、一方の英世は、お札になってまで現代人をも聖人君子と思わせ続ける、超ウイザード級のペテン医師なのであるが。
ちなみに、残された英世の写真を見る限り、お札の肖像のような伝記に出てくる立派な人といった印象はまったくない。
「あー、やっぱりな、好きそうだ(笑)」
という人である。借りた金で豪快な遊びをした人だし、その借金を他人に返済させるほどの人なのだ。国際経験に基づく話題も豊富で、異常にエネルギッシュで、朗らかで、ポジティブで、一緒にいて楽しい人だったろうな、と勝手に想像してみる。
ちなみに、福島県猪苗代町には英世の生家が残されている。英世の足跡や遺品が数多く展示されている。お子様には教えられないとして、真説英世伝を伝えるものはなかったと記憶している。
しかし、内容が充実しすぎていて、あそこに3時間くらいいた22歳だった夏の頃を思い出す。英世が、アメリカでの遊ぶ金欲しさ?に金持ちの娘を騙そうと、もてる才能のすべてを費やし、権謀術数の限りを尽くしていた年頃だ。