お米と日本史のはじまり

 お米の歴史は、日本史と常に寄り添うような形で発展してきた。そして、お米史はついに海外輸出の段階へと入る。

 

   ともあれ、稲作の始まりは日本史の始まりといってもいい。おそらくは中国南部から、または朝鮮半島経由でお米が日本にやってきたのは、縄文後期の紀元前500年前後ということらしい。

 

   この頃から、日本人はその風貌まで変えていく。つまり、狩猟文化の縄文人が、農耕文化の弥生人に進化を遂げたのである。

 

   顔立ちそのものも、彫りの深いものから、目が細くて扁平な現在の弥生顏が主流になった。

 

   しかし、たった数百年で人間の遺伝子が劇的に変わることなんてあり得ない。したがって、稲作とともに、無数の大陸系渡来人が日本に住み着き、そして土着の住民を日本の南北へと追いやったわけだ。

 

   それが現在のアイヌや沖縄土着の人びとといわれる。実際、アイヌと沖縄人には、民族的に遺伝的に極めて近い人も多いということ。

 

   その渡来系弥生人が日本国家の原型を形作ったわけであるが、紀元200-600年頃、もう一つ大きな変化が訪れる。

 

   それが中国北方系民族の大挙移民である。この民族はもともと現在の中国東北部に発祥したと言われ、そこから蒙古、朝鮮半島へと枝分かれした。

 

   朝鮮半島から日本へと渡り、それが支配階級として日本史上に登場したわけである。

 

   支配者層と被支配者層では、使われる言葉も大きくことなったそうであるが、いずれにせよ、その時代に現在の日本語が出来上がった。

 

   これは、蒙古語、朝鮮語、そして日本語が同じアルタイ語族系に分類されていることにも明白。インドヨーロッパ語族同様、モンゴル、中国北東部、朝鮮、そして日本は、もともとは一つの民族だったわけだ。

 

   ちなみに、奈良時代には天平文化がおおいに栄え、その様子は奈良の文化財群に見ることができる。

 

   阿修羅像に代表されるこの当時の仏像の顔を見てみる。これらは明らかに日本人の顔というより、横綱白鵬やその他モンゴル系の顔立ちである。

 

   国宝級の仏像は当時の芸術の粋を集めて、当代を代表する彫刻家が製作した。モデルとなる顔立ちは当然支配者層から選出されていたはずだ。

 

 だから、黎明期の日本は、新しく日本を支配下においた、中国東北部発祥の民族であったに違いないのだ。

 

 また、現在の天皇家もさかのぼれは高句麗系(現在の北朝鮮から中国東北部に栄えた国)にたどり着くといわれている。

 

 奈良の大仏を作った桓武天皇の側室にも、朝鮮の百済(南朝鮮の半分に栄えた国)から姫を迎え入れていたようだ。つまり、皇室には大陸の地が色濃く伝わっているのであった。

 

 この当時の日本史は、学校の授業では現代史とともにさらっと流されるだけである。しかし、現明治以降の日本を除けば、日本が史上最も国際化に富んだ時代であった。あまり記録が残されていないという事実とあって、大変なロマンをかきたてられるのである。