大阪蜜柑物語

1.

 

 芥川龍之介の短編私小説に、「蜜柑」という作品がある。

 

 

 ある冬の夕暮れ、東京へ向かう電車の中。他の乗客は誰もいないのに、一人の薄汚い少女が龍之介の向かいに座る。大正時代、鼻をすすった、見るからに貧しい田舎者の少女。育ちのいい龍之介は、何でお前がここに座っているんだと、彼女に対して軽蔑と嫌悪感を抱く。

 

 この少女、ふと気づくと龍之介の隣りに座って、蒸気機関車の窓を開けようとし始める。昔の汽車の窓は大変重たかったらしく、少女には大変だった。だが龍之介は手伝わない。「永久に開かなければいい」と、なぜ開けようとするのかを尋ねようともしない。

 

もうすぐトンネルだからすすが入ってくるじゃねぇか、余計なことすんじゃねえぇよこの貧乏人、と東大卒の龍之介はさらに不快な気持ちになる。

 

 やっと窓が開くと、すぐトンネル。すすが入ってきて大変だった。龍之介の不快指数は針を振り切った。頭ごなしに怒鳴りつけてやろうとした瞬間、開けられた窓から入ってきた新鮮な空気が気持よくて、怒鳴ることを思いとどまった。

 

 しばらくたって、トンネルを抜けたところで、少女は窓から顔を出した。外には、そこで大声を上げながら手を振っていた汚らしい子供たちがいた。少女は、風呂敷包みの中に持っていた蜜柑を彼らに放り投げてやった。

 

 龍之介の寒々としていた心境に明るさを灯した、蜜柑の鮮やかな橙と、弟たちに対して少女が取った行動。

 

 まるで映画のようなワンシーン。

 

 龍之介は悟った。この子は東京へ奉公に出される途中だった。当時のことだから、口減らしのために遊郭や商家に売られていく子供は多かった。トンネルを抜けたところに兄弟が見送りに来ていることを、少女は知っていた。だから、すすが入ってくるとわかっていても、少女は必死になって重い窓を開けた。

 

 そして、最後の別れに、選別にもらったのであろう蜜柑をあげた。

 

 残された肖像どおり、いつもストレスで苦虫を噛み潰したような人だった龍之介。そのものの数分である心温まるシーンに大変癒される思いを感じた、という内容が淡々とつづられていた。初めて読んだのは高校3年生のときだった。

 

 

2.

 

 時代は移って平成の大阪。12月に一時帰国したとき、JRに乗った。東淀川から新大阪駅へ向かう途中の車内、ふと前を見ると、30歳前後の母親と2歳くらいの幼女が、手をつないで座っていた。

 

 お母さんはノーメイク。この世代の女性たちは、つけまつげと目元ぱっちりの二重メイクに、美白ファンデーションにほっぺたをちょっと赤らめるメイクで、みんな眩しいくらいきれいにしている。しかし、悪くいえばみんな似ていて、一体誰が誰なんだかよくわからない。しかし、これが平均的な世の若い女性なんだ。

 

一方で目の前のお母さん。顔立ちはとても整っているのに、髪は後ろで束ねただけで整えられず、若いのに相当苦労しているのか、白髪も目立っていた。薄いベージュのジャケットも見るからに安っぽく、さらに薄汚れているように見えた。身なりにかまう余裕がまったくなさそうだった。足元を見ると、なんちゃってヴィトンのようなボストンバッグが置いてあった。

 

彼女は、左隣に座る2歳くらいの幼女の手をしっかりとつないでいた。年の瀬も迫った寒空、幼女のほっぺたは真っ赤だった。桜色のジャケットを着ていたけれど薄汚れていて、子供にいい服を買ってあげられない親の苦労が、そこにでていたような感じだった。

 

おそらく、まだ日本が貧しかったころには当たり前だった貧しげな親子の風景。しかし、みながこざっぱりとしてる今の時代では、まるで昭和37年の日本から、彼女たちだけがタイムスリップしてきたかのようであった。

 

私は、彼女たちがとても気の毒になった。どういう背景があるのかは想像するより他にない。ノーメイクでもこんなにきれいな人なのに、なぜこうも苦労がその様子から滲み出ているのだろう?そして、自分ひとりでも見るからに大変そうなのに、彼女はなぜ子供の手をしっかりつなげているのだろう?

 

彼女の顔をもう一度見ると、白髪とは対照的にしわはまったくない。ツルッとした肌で、目にもしっかりと光があり、下を向かずに前を見ている。きっと、外見とは裏腹に、彼女はそれほど深刻な精神状況ではないのかもしれなかった。

 

新大阪に着いて、足元のボストンバッグを左手に、右手に子供の手を引いて、彼女は改札口へと下っていった。足取りは確かだった。今の時代、2歳くらいなら未だベビーカーに乗って連れられている子供は数多い。しかし、その幼女は、母に手を引かれて、無表情にも一生懸命ヨタヨタと歩いていたのである。背中には、赤い小さなリュックを背負っていた。

 

そのようなディテールまではっきり覚えているのだから、これらの光景は、私の人生の中においてもよほど衝撃的だったのだろう。

 

東淀川から新大阪までの間、時間にしてほんの数分だったと思う。私はその間、彼女たちを見ながら、芥川龍之介の「蜜柑」を思い出して仕方がなかった。

 

もちろん、お母さんがいきなり窓を開けて、大阪の町に蜜柑をばら撒いたわけでもない。この親子が住み込みでどこかに働きに出るために、鳥取の田舎から大阪に出てきたわけでもない。

 

しかし、貧しくて苦労しているのだろう親子であっても、しっかりとつながれた母親の手に引かれて、一生懸命歩く幼児のその姿に、私は何かホッとする気持ちを抱いたのである。

 

起業からまもなくで、いろんな心配や不安で不安定な精神状態だったあの時の私。そんな中、大阪の電車内で見かけた大変そうな母子の、しかし、しっかりとつながれた手と一生懸命歩く幼女の姿。それはたぶん、蜜柑をばら撒く少女を見たときのイライラしていた龍之介と、どこか似たような心境だったのかもと、その後ずっと考えていた。

 

 

3.

 

「これでおいしいあきたこまちを食べてね」

 

と、もし新大阪駅へと降りていくその親子をつかまえて、そして稲造米穀店のおこめ券をプレゼントできていたらと、未だに思うことがある。せめて子供にだけは、おいしい日本のごはんを食べて、健やかに育ってほしいから。

 

ただ、私はシンガポールでしかお米の販売をしていなかった。だから、代わりにといっては語弊があるが、シンガポールの日本人の子供たちには、ぜひ日本米で育ってもらいたいのである。