さかのぼれはバイカル湖

 稲作は陸稲として日本に伝わり、水稲として発展したとは、先の項で述べたとおりです。

 

 稲作ルートは朝鮮半島経由、中国南方経由、そして沖縄経由の3つがあります。しかし、当時朝鮮半島や中国北部では稲作が一般的ではなく、中国南方経由が稲作伝播ルートの最有力とされています。

 

 では、朝鮮半島にはどうやって稲作が伝わったのか?

 

 弥生時代が終わったのは、卑弥呼の死と重なる西暦250年頃。聖徳太子が馬小屋で生まれたのは574年です。この間の時代のことは文字としてほとんど記録に残されていませんので、はっきりしたことはあまり分かっていません。

 

 しかし、当時は日本と朝鮮半島の人的交流は大変盛んだったようです。それは、中国北部→朝鮮半島→日本と渡来してくる人々が多かったことのほかに、日本→朝鮮半島の進出も多かったのです。

 

 当時の倭国は国を発展させるために、大陸や半島の優秀な技術者を積極的に受け入れていたようです。このへん、明治政府が欧米からの技術者を招聘し、また、多くの国費留学生を派遣していたのとよく似ています。

 

 

 ヒトが動くと、同時にモノや情報が動きます。農作物やその栽培方法も海を渡ったと考えるのが自然ですから、このときに水稲栽培も朝鮮半島に伝わったものと思われます。

中学高校の歴史教科書では、この当時、日本が任那(みまな)と呼ばれる朝鮮半島南部を支配下においていたとは、サラッと触れられている程度です。このサラッとの部分だけとっても、「この時代に海を越えてたいしたものだ」と中学生ながらに思っていたものです。

 

 ただ、おそらく、韓国との国家的な関係から、朝鮮半島と日本の歴史が交差する場合、一種のタブーとされているのでしょう。

 

 この当時、朝鮮半島は中国から少し遅れて、高句麗・百済・新羅による三国時代に突入しており、それに大和朝廷が半島進出の足がかりとして、現在のプサンの西あたりを押さえておりました。その証拠に、日本に特徴的な前方後円墳が、このあたりから発掘されているのだそうです。もっとも、韓国政府は素直に認めないようですが。

 

 実際、ソウルの韓国国立博物館にいったことがありますが、韓国の歴史をたどる「三国時代」の部分では、任那の存在は完全に無視、日本との関係もほぼ無視という、韓国最高峰の展示施設であるにも関わらず、完全に歴史を曲解した内容となっていました。

 

 この韓国西部にあった百済という国。日本にもっとも深い影響を与えた国だというのは、奈良の国立博物館や、正倉院展などに行くとよく分かります。シルクロードを渡ってきた欧州ものは、ほぼこの百済を経由して、日本に来ていたのですから。

 

 だたこの百済、実は大和朝廷の服従国だったようなのです。646年の大化の改新直後に起こった白村江の戦い前夜当時、百済王子は日本に人質として滞在していたとのことです。日本は大陸進出を伺うべく、任那を足がかりに百済を実質的な支配下においていたわけですが、その野望は白村江での敗戦により、もろくも崩れ去ってしまいます。

 

 

 そしてそれ以後、日本は大陸との国交を、たまに派遣する遣唐使などに限り、ほとんど鎖国状態に突入します。ですから、663年の白村江の戦いまでに国内で形成された遺伝子が、現在の日本人の遺伝子に繋がっているものと思われます。

 古墳時代の日本と百済の文化は、かなり共通したものがあるようです。写真はソウルの国立博物館で撮影したものです。鎧や剣、馬の埴輪などなど、ほとんど日本の古墳時代のそれと同じです。金色の像が有名な弥勒菩薩ですが、これも百済のものです。日本の国宝・弥勒菩薩像と姿勢まで同じですね。

 

 また、当時の朝鮮半島人は、今のホームベースのような顔かたちをした(整形により、皆さんだいぶ遺伝子上の姿とは異なっておりますが)韓国人とは、まったく異なった人種だったようです。

 

 いえ、正確にいえば、当時は支配者層と先住民が異なっており、使用される言語も異なっていたようです。渡来人が日本の縄文人を駆逐して支配者層となり、混血して日本人が生まれたのとよく似ています。

 ちなみに、奈良興福寺にある女性に人気ナンバーワンの仏像は、大仏ではなく、阿修羅像です。どこか憂えげな表情に、ラインの細い中性的なイメージですから、ドキっとするのもうなずけます。この阿修羅像を制作したのは、百済から渡来した万福なる仏師ですし、そのモデルとなったのもまた、どうやら百済から来た少年だったようなのです。

 

 つまり、当時の韓国人は、阿修羅像のような顔をしていた。ホームベースのような顎のラインに、細い目の韓国人とは似ても似つきません。百済は中国北方系ですが、その顔は、現在の蒙古人とよく似ています。そうです、相撲取りの白鳳や日馬富士の顔と同系統なのです。

 

 

 モンゴル人と日本人など東アジア人の赤ちゃん時代には広く蒙古斑が見られ、かつ、モンゴル人・韓国人・そして日本人の言語系統はアルタイ語族という同じ累計の属するという事実からかんがみるに、旧満州地区のあたりが我々の発祥地であり、それが各方面へと分散していくことで縄文人や韓国先住民等と混血し、新しい人種を形成したのでありましょう。

 

 

 今の韓国人というのは、その支配者層であった中国北方民族と、韓国土着の、日本でいう縄文人の混血にルーツがあるのでありましょう。日本人も、南下して、ついには海を渡った北方騎馬民族民族の影響が色濃いわけです。その点、欧州のゲルマン民族の大移動により、ローマ帝国は滅亡し、欧州の歴史そのものが大きく変わったのとよく似ています。

 中国北方系の血を引くわれわれ日本人、韓国人、蒙古人、中国北東部の人々のルーツは、石器時代までさかのぼれは、ロシアのバイカル湖畔だったといわれています。

 

 世界最大の淡水湖、世界最高の透明度を誇るこの湖のほとりで、我々の先祖は氷河期を耐え忍び、環境に適応したアジア人的容姿を獲得したといわれています。

 

 その民族が、中国古代から領土を侵す忌まわしい北方遊牧民として万里の長城の向こうに追いやられていましたが、おそらくは気候変動による草原の枯渇がきっかけとなり、積極的な南下政策を試み、朝鮮、九州と渡って、現在の至るのでありました。

 

 ちなみに、中世の蒙古族は、チンギスハンという大王の出現をきっかけに、東欧州にまでその勢力圏を拡大します。チンギスハンの時代も、気候変動がきっかけで、略奪しなければ生き残れなかったという事情が背景にあったようです。

 

 もちろん、鎌倉時代に蒙古来襲として、北条時宗率いる当時の日本政府とも死闘を繰り広げます。

 

 ただし、当時の蒙古軍の中心は、勢力下に置かれた朝鮮半島の高麗軍だったそうです。

中国北方の騎馬民族は、日本人の先祖であるだけではなく、世界中の民族構成・物資や文明の交流に、計り知れない影響を与えました
中国北方の騎馬民族は、日本人の先祖であるだけではなく、世界中の民族構成・物資や文明の交流に、計り知れない影響を与えました