この項では、米を中心とした日本人の食文化や食生活について考えてみたいと思います。
1.稲作の伝播は長江下流域から
米という作物は、日本の有史以前から主食であったと同時に、政治経済、そして文化に深い深い影響を与えてきました。
米という植物そのもの、美味しい食べ方、品種あれこれもそうですが、米がいかに日本という国と日本人に深く関わってきたか、少し整理してみたいと思います。
さて、稲という作物の原産地は、インド・中国・ミャンマー・タイが隣接する付近だったといわれています。こうして地図で見るとタイミャンマー国境付近のケシの花地帯のような秘境にあります。
ここからその地域の環境にあった姿に変わって世界中に伝播していくわけですが、現在、世界最古の稲作が始まったのは、中国の長江下流域だったといわれています。遺跡が見つかっているというだけの話で、実際はもっと古くからあったのかもしれません。それが7000年前といいますから、中国でも創世時代の話になります。
時は下って、日本に稲作が伝わったのは、縄文時代末期といいますから、紀元前500年あたりです。稲には陸稲と水稲の2種類があって、現在の日本はほぼ100%水稲栽培です。水を張った水田に稲を栽培する方法です。陸稲というのは、畑のように水を張らない土の上で栽培する方法で、最初はこの栽培方法だったようです。
日本初の稲の栽培は、現在の佐賀県が最古です。ただ、こちらも中国の長江下流域同様に「遺跡が見つかっている」というだけの話で、実際は九州のどこかでもっと早くから始まっていたかもしれません。
では、誰がどのように、どういったルートで稲の栽培を伝えたのでしょう?稲が一般的になるまで、日本は縄文時代、つまり竪穴式住居に住みながら狩りをしつつ、遊牧民的な生活をしていたわけです。それが、稲作が始まることによって、人々は土地に定住し始めた。
中国では諸子百家が大いに栄え、孔子が人生訓をたれ、孫子が「戦わずしていかに戦争に勝つか」を書物に表していた時代、日本は未だにアマゾンの奥地に暮らすヤノマミ族や、またはアフリカのブッシュマンのような、文字も何もない原始的生活をしていました。
それが、稲作の伝播によって生活スタイルに大革命が起こったのでした。
このへんは学校の社会科でも触れられていることです。
稲作伝播のルートは3つあります。
まず、朝鮮半島経由。古来より、日本はもっとも近い朝鮮半島から大陸文化を輸入していましたので、一見、これがもっとも自然なルートです。ただし、朝鮮半島やその先の中国北部では稲作は一般的ではなかったと言われています。
次に、中国南部から海を渡ってやってきた人々に伝えられたというルート。最後に、東南アジア方面からわたってきた人々に伝えられたというルートです。
いずれにせよ、天孫が降臨したのは宮崎は高天原でしたし、中国から金印をもらったりと日本の文明らしきものは九州から始まっていますので、どれも正しいルートといえるのではないかと思います。
日本最古の稲作の遺構は佐賀県で見つかっています。ただし、古代も今も佐賀より福岡ですし、長江付近からの伝播なら、地理的に熊本や鹿児島の方が自然なのではないかと推察します。
縄文時代末期という時代は、中国大陸は春秋戦国時代という、中国最大の乱世時代にありました。
戦争というのは、いつの時代も人間の潜在能力を飛躍的に開花させるようで、孔子、老子、荘子、墨子、そして最近話題の孫子...と、思想や法律、戦術戦略等々の文明が大進化を遂げた時代でもありました。荒廃して退化するどころか、逆に進化する。それが2700年位前。農業技術もまた、同様に発達したに違いありません。
戦乱期ですから、戦争に負けたり、家や土地を失ったり、虐げられていた人々が、国を追われて、難民や移民として大量に外国へ向かったことは想像に難くありません。アメリカ最初の移民は本国で宗教弾圧された人々でしたし、アイルランド人は貧しさからアメリカを目指し、今では政治経済を牛耳るまでに至っております。
図を見ると、中国南部沿岸地方の呉越、もしくは沿海州付近/山東半島の斉という国あたりを通じて、はるばる海をわたって移民たちが新天地を求めて、種籾とともに日本にやってきたようです。
とにかく、中国の春秋戦国時代と、日本で稲作が始まり、遊牧民的だった日本人が定住を始め、邑を作り、そして徐々に国家の体をなしていくのと、時期が重なるわけなのでありました。
そもそも、縄文人と弥生人では、顔立ちや体つきもまったく異なっているといわれています。縄文人はズングリムックリで、彫りの深い、まさに狩猟民族という風貌。一方の弥生人は、背が高く、顔がつるんとした、現代の日本人に通じる顔をしていた。
大陸から新天地を求めてやってきた人々は、優れた文明を持っていましたから、最初は九州に定住し、大陸から持ち込んだ稲作を始め、力を蓄え、そして先住民族の縄文人のテリトリーを奪い、徐々に徐々に北へ北へ、あるいは沖縄方面へと追いやっていったわけです。
だからこそ、北海道のアイヌ人と沖縄県民は、本土の人間以上に遺伝子が近似している。
このへんは、イギリスから移民してきた人々に追いやられてしまった、近代のアメリカンインディアンや豪州アボリジニ、NZのマオリ族ととてもよく似ています。
大陸人からの来襲者がテリトリーを拡大する過程で、当然縄文人と混血がなされたでしょう。そのハーフがまさに、現代の日本人に通じる風貌なのであります。
筆者はNZでしばらく働いておりましたが、この国の人々はみんなどこかに先住民族であるマオリ族の血を持っています。外見上は欧州系と見分けの付かない人でも、8分の1や16分の1くらいマオリ族の血が入っていたりする。
この国の建国は1840年ですから、たった170年余りの歴史の中で、相当な混血が進んだことになります。そして、NZの自然環境や気候とあいまって、新人種NZ人が誕生した。
それと同じで、日本人は大陸系と縄文人の混血で、それが誕生したのは、稲作が始まった頃。NZの人口はたったの420万人足らずですが。たった170年で一気に広まった混血ですから、新日本人=当時の「倭人」がマジョリティーになるまで、220年の卑弥呼の時代まで十分だったでありましょう。
倭人=新生日本人が確定的になったのは、畿内を中心に発展した大和朝廷の東西大遠征によるものです。この頃の話は、ヤマトタケルノミコトの物語として語り継がれております。
古墳時代から奈良時代にかけての、ヤマトタケルノミコトや阿部比羅夫、坂上田村麻呂といった将軍たちの先住民征伐により、日本では混血化が多いに進んだ。われわれ日本人の直接の先祖、ということになります。
つづいて、2.故郷はバイカル湖畔へ